表題 | 今津の風 | 博多湾に面した糸島半島。そこにある今津の浜を舞台にしました。 |
表紙 | 集合図 | 背景に迫る蒙古軍を描いて、僕が好きな歴史スペクタクル感を演出。 |
服装 | ヒロインの服装は、着物だと年齢が高く見えてしまうので、ちょっと大陸風。 舞台になる博多は大陸との交流が盛んな土地なのでありだと思いました。 主人公の服装はちょっと奇抜に。敵将の鎧は現存するものをアレンジ。 |
02 | 文永11年 | 二度あった蒙古襲来。本作では一回目の「文永の役」が舞台。1274年、今から約740年前のこと。 |
鳥瞰図 | 一コマ目は博多湾の入り口の様子。手前から今津の浜。能古島。 さらに奥の小島が、あの「漢委奴国王」の金印が見つかった志賀島。 見つかったのは江戸時代なので、この時点ではまだ埋まってます。 |
03 | 小呂島 | 小呂島は博多湾を出た玄界灘の、さらに先の沖合に浮かぶ小島です。 この頃は中国(宋)の商人の館もあったとか、かなり遠いです。 |
04 | 河童のイヨ | 発想の原点が「河童の竹蔵」という対馬の伝承だったので、ひねった結果、 主人公はカナヅチで、ヒロインが泳ぎが得意な「河童」になりました。 |
05 | 今津の男 | はじめは主人公が泳げるようになって「河童の竹丸」になる予定でしたが、 男として認められる方が重要になったので、後からつくった設定です。 |
06 | 漁師 | 海の男、漁師は男らしさの代名詞。海で泳ぐのは怖くて絶対いやだけど、 ひいおじいさんの代まで漁師をしていたので、思い入れがあります。 |
07 | 騎馬武者 | 本当はメインで描きたいのに、数少ない出番の騎馬武者。 ただ描くのが大変なうえに、トーンも貼りすぎて大変でした。 |
蒙古が来るぞ | 博多防御の裏をかき、蒙古軍の一部が今津の浜に上陸。 この時の反省から弘安の役では今津にも防塁が築かれた。 |
08 | 蒙古来る | 頼山陽の日本史を詩でつづった『日本楽府』の「蒙古来」で有名な一節。 海音寺潮五郎さんの小説『蒙古来たる』でももちろん有名。 |
上陸艇 | 蒙古軍が用いた上陸艇は「抜都魯(バートル)」と言い、勇猛という意味。 |
朝鮮半島 | 高麗王朝はモンゴル帝国との約30年戦い、1259年に征服され属国となる。 文永の役には軍船の建造を行い、全軍の2割の5600名は高麗兵だった。 |
蒙古兵 | 2コマ目、槍をもち頭巾のような兜の重装兵。弓を持ち身軽な軽装兵。 蒙古軍はモンゴルや宋、金、女真、契丹、高麗などの諸民族の混成軍。 重装兵は下村観山筆の『蒙古襲来図』を参考に、兜の羽飾りはオリジナル。 |
洞窟 | 襲われた人々は洞窟や山に隠れたものの、とある島では鶏の鳴き声で 兵士に見つかり、老婆一人を除いて一家が皆殺しにされた。以後その島では鶏を飼わなくなったという。 |
09 | 対馬・壱岐 | 蒙古・高麗軍は10月3日に対馬を襲い、一週間にわたり略奪、島民を虐殺。 さらに壱岐、鷹島、平戸、能古島など各地を襲い、19日に博多湾へ侵入。 |
むごい | 蒙古・高麗のことをムクリ・コクリと呼び恐れる習慣は、 かなり最近まで残っていた。「むごい」の語源という説もある。 |
11 | 通辞 | 通訳のこと。たぶん高麗の人です。倭人は日本人に対する蔑称。 |
水場 | 蒙古兵約2万、高麗兵約5千6百、水夫約1万5千人、合計約4万の軍勢の、 飲み水を確保することも重要で、山の中を探索したという。 |
12 | 蒙古語 | モンゴル語は、実際は日本と同じで縦書きですが、異国感をだすため わざと横書きにしています。スイマセン。 |
13 | バントル | 今回の悪役、蒙古の武将バントルは、先のバートルからもじりました。 |
博多への総攻撃 | 今津上陸後、蒙古兵は陸路東進、博多へ上陸した主力と挟撃の形をとる。 |
さらわれたイヨ | 役後、さらわれた童男童女200人は高麗の25代忠列王に献上された。 ちなみに「忠」はモンゴル帝国への忠誠を示し、慣習は30代まで続く。 |
14 | 日本軍 | 鎌倉幕府の防衛意識はほとんどなく非難のそしりを免れないが、 常識をはるかに超える大軍勢が海を越えてきたのも事実だった。 防衛にあたった九州の御家人はあまりにも急ごしらえだったため、 鎮西奉行の少弐資能の子、景資を「(その)日の大将」として戦った。 |
戦法 | 日本軍は作法通り、総大将の子資時を選び、矢合わせの鏑矢を射させる。 蒙古軍はどっと笑い銅鑼を打つ、日本の馬はその音に驚き制御できない。 名乗りを上げようとする武者に蒙古軍は容赦なく矢を放ち、馬を斬りつけ、 集団で打ち取るなど、一騎討ちを旨とする日本軍を苦しめた。 |
戦法2 | 日本の戦いが礼儀作法に基づくのは、同じ日本人相手に戦っているからで つまり同族間の戦いによってルールが自然と形成されていった。 対して蒙古軍は、大陸を中東、ロシア地域、ポーランドまで攻め込む、 異民族との戦争のプロであり、相手のルールにかまうはずがそもそもない。 |
毒矢 | 敵の矢には毒が塗ってあり、刺さると体がしびれ、浅手でも死に至った。 また蒙古の矢は半弓で速射に、一方日本は長弓で遠射に優れていた。 |
鉄炮 | 日本がはじめて体験した火薬を用いた兵器。攻撃用ではなく撤退用で、 火をつけ手投げ弾のように投げつけ、爆音で相手をひるませるもの とされてきたが、破片が飛び散り、十分な殺傷能力が近年証明された。 蒙古軍は、この兵器を隣国の金を攻め落とした際に手に入れた。 南宋の城を攻める際には、中東から入手した回々砲なる投石機を用いた。 |
竹崎季長 | 2コマ目の武将は『蒙古襲来絵詞』を残した竹崎季長をイメージしてます。 |
副将 | 蒙古軍の左副元帥である劉復亨(りゅうふくこう)は少弐景資の 遠矢にあたり負傷、撤退をよぎなくされた。 |
撤退 | 約5千の日本軍は奮戦するも、大宰府防衛のため水城まで退いた。 かつて天智天皇が白村江の戦いに敗れた際、九州防衛のために築城。 蒙古軍は博多を一部掌握したが夜になると火を放ち船へと引き上げた。 |
夜襲 | この撤退は謎が多いが、慣れない土地での夜襲を恐れたとされる。 蒙古の集団戦法は闇夜では不可能、一騎討ちの日本軍の有利となる。 また混成軍のため連携がとれず、「官軍整わず、また矢尽きる」とある。 |
16 | 顔アップ | 心情の変化や強い決意を表す、主人公の顔アップですが、ページ半分の でかい顔を描くのは、僕にとって初めての経験でした。 |
17 | 時化る | 有名な神風だが、文永の役は今の暦で11月のため台風とは考えられない。 だが蒙古の船が沈んだのは事実であるため、玄界灘特有の時化とされる。 |
風 | タイトルにも入れたように重要な「風」は作画にもこだわってみました。 奥から手前に吹く風の描写がお気に入りです。 |
18 | 碇 | 竹丸が捕まったのは戦艦の碇を結ぶ縄です。 引き上げられた蒙古船の碇石から40メートル級の戦艦もあったと推測。 |
戦艦 | 文永の役は高麗造り、弘安の役の南宋造りのデザインを勝手に追加。 戦艦の資料は大陸側にも残っておらず、『蒙古襲来絵詞』が一級資料。 |
30 | 都元帥 | 蒙古軍の総司令官のこと。蒙古人の忻都(ヒンドゥ)弘安の役では東路軍を率いた。 |
フビライ様 | ご存知フビライ・ハーン。世界中を震撼させたモンゴル帝国の大汗。 南宋を屈服させ「元」を立てると、日本遠征を行い関係は冷え切ったようだが 以外にも日本とは政冷経熱の関係を持つことになる。 |
帰投する | 頑強の抵抗、負傷した副将、司令官の間でも作戦面で意見がまとまらず、 また折よく風が吹いたことも帰投を即座に決意させた要因だと思われる。 |
31 | 姿を消していた | 上記の事情を全く知らない日本軍にとって、博多湾を埋め尽くした大船団が 一夜にして姿を消したのは、まさに狐につままれた心境だったはず。 |
座礁 | 『八幡愚童記』によれば、志賀島に座礁した船が一隻だけあったという。 約220名の敵将兵が乗っており、50名は京都へ連行され残りはみな処刑。 今では蒙古の首塚という鎮魂碑が残る。人々の恨みはあまりに深かった。 |
神風? | 日本軍が神風にとされる突風に全く気がつかなかったのは、 蒙古軍が撤退後に暴風雨に見舞われたためだろう。 『勘仲記』には「逆風は神明の加護」とあり、この記述が弘安の役の台風と 結びついた結果、神風信仰を生み出したのではないだろうか。 |
その後の蒙古・高麗軍 | 『高麗史』には「戦艦岩崖に触れ多く破壊」「高麗左軍使の金?(キムシン)海没」(シンはにんべんに先)とあり、 出発時対馬に2日でついた船団は、1ヶ月もかけ高麗の合浦に帰港。 その時の軍勢は1万3500名も減り、およそ3分の1を失っていたという。 |
34 | 小呂島 | 「おろのしま」は音が似てるので、日本神話のイザナギ・イザナミが 降り立った最初の島「オノゴロ島」ではないかと言われる。 主人公とヒロインの新たな旅立ちの場としてベストだと思いました。 |
波 | 今回の作画で頑張ったと自画自賛するのは、浜辺や海面や波の表現。 形が不安定なものほどセンスが問われます。トーンも頑張りました。 |
弘安の役 | 文永の役のおよそ5年後、再び蒙古は襲来しますが、竹丸・イヨは どうなってしまうのか?それはまた描く機会があればの話。 |
以上!暇つぶし解説 & 勝手に時代考証でございました。 最後までお付き合い頂き感謝です。 |